七峯の丘から
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令麻のお輿入れ [令和1年5月18日]
 本日、麻賀多様の生き狛犬達に可愛い女の子が加わりました!
 名前は「令麻・れいあ」。決してキラキラネームではございません!笑
 犬種と色は皆さんお馴染みのチワワのブラックタンでございます。
 令麻は徳島県の東みよし町に今年3月17日に6人兄弟の1匹として生まれました。そしてなんと兄弟みんなブラックタンという、フェスティバル&カーニバル状態だったようです。
 徳島県は阿波忌部氏の出身地。その分流が黒潮に乗って安房の地、今の千葉県館山市にたどり着きいろいろな技術を広めながら北上していきました。
 なので字は違っても阿波と安房になり、技術伝承の最たるものが麻の栽培だったわけです。
 この七峯でも再三記しておりますが、現在の千葉県を形成する安房・上総・下総の房と総は共に「麻」を表しており、当地佐倉は麻倉が転じたものとも言われております。
 天皇陛下の御代替わりという大慶な今年、11月には天皇一世に一度の大嘗祭が齋行されます。
 この大嘗祭で陛下が召される「麁服(あらたえ)」は徳島の地で栽培された麻で作られ、奉製は阿波忌部直系の三木家で行なわれます。
 令麻がうちに来ると決まったとき、徳島と千葉の繋がり、ご縁を感じずにはいられませんでした。
 平成31年3月17日と平成生まれですが、平成から令和、そして忌部と麻のから令麻と名付けました。
 ちなみに県内の忌部系だと勝浦が一番多く子孫が残っており、遠見崎神社を中心として神事に携わっております。
 実は来月2日にその勝浦市神社総代会で宮司が「令和の御代替わり」と題し講演することも決まっており、麻のことも是非内容に組み入れたいと考えております。
 さて話を生き狛犬に戻しまして、令麻のお母さんはとて美人さん、いえ美犬さんと言った方が良いのかですが、綺麗な顔立ちなのです。
 今回の出産が最後と言うことで、徳島の親御さん達も送り出すのがつらかったと思われます。
 今日は徳島空港から日本航空458便に乗ってやって来た令麻。可愛いケージに誤飲防止のカーペットを敷いて頂き、お気に入りのおもちゃも入れてくれました。
 佐倉に着いてから先輩狛犬の桃太と雛、そして旦那となる珠京とも対面しました。みんな唸るとか無く小さな令麻を見守っています。
 環境の変化が大きいので暫くは宮司宅内での暮らしとなりますが、次回の予防接種の後は徐々に散歩にも連れて行こうと考えております。
 徳島の親御さんに感謝すると共に佐倉の皆さん、令麻をよろしくお願い致します!

令麻、珠京とご対面

令麻のお母さん

令麻と兄弟達
 
落書きは犯罪 [令和1年5月17日]
 イギリスを拠点として活動する匿名の芸術家バンクシー。
 絵だけと思いきや映画作成や政治活動家としても知られています。
 去年でしたか、東京都内にある堤防の金属製扉に鼠が傘を差している絵が見つかり、バンクシーの作品では無いかと大騒ぎ。
 真偽の程も不明ながら今月都庁で期間限定で一般公開されました。
 彼の絵は社会に対しての風刺画がおも。片上を使っての作品は同じものが世界中で散見される事も珍しくありません。
 当地佐倉の隣。印西市にある双子公園のトイレにも二足歩行の猿の絵が発見されました。
 模倣犯だろうと言うことでこちらは消されることに決まったようでえす。
 実は神社の近くでばんくし〜が出現したらしいのです。
 バンクシーではありません。ばんくし〜です。
 神社から鏑木仲田町方面に向かうとトンネルをくぐることになります。
 このトンネル内部に上記のように平仮名で「ばんくし〜」と書かれておりました。
 この場所はスプレー缶でのいたずら書きが多く行なわれ、その度に行政がペンキで一面を塗り直しています。
 もちろんバンクシーとばんくし〜は違う人物で、というか後者は余りにも稚拙なのでなんとも言えないのですが、落書きは犯罪です。
 この手のものは器物破損罪や建造物損壊罪に該当。また地方自治体が定める迷惑防止条例にも抵触しますのでやらないに越したことはありません。
 因みに建造物損壊罪は罰金刑の規定が無くいきなり懲役刑が処されます。
 芸術と落書きの境は曖昧ですが、ただ文字や記号を羅列したり、センスの無い色使いで刺刺しいものを書くのは後者でございますよ。
ご用心ご用心!!

これは犯罪行為です
 
佐倉のおへそ [令和1年5月16日]
 今日も散歩話です。暫しお付き合いの程をお願い致します・笑
 当社はその昔、現在の大字である「鏑木・かぶらき」村の鎮守としてありましたが、豊臣時代あたりに千葉氏が神社西側に鹿島城(現佐倉城)を築き、その後江戸時代に入り佐倉藩が成立してからは、藩の総鎮守との性格になりました。
 その際に鏑木の尾根伝い作られたのが城下町の新町。これにより鏑木は南北に分断されることとなりました。
 町割りをするに起点となったのが当社で、神社より西側を武家町。東側を町人町である城下町としました。
 なので、佐倉地区の地図を見ると必ず当社が真ん中になるのです。
 佐倉の街中を歩いていると江戸時代中期の文献「古今佐倉真佐子」の地図をパネルにしたもの見る機会があります。
 町割りと道路はほとんど変わっておらず、現在の位置に何があったのかを知ることが出来ます。
 今日も生き狛犬の珠京と散歩に出掛けましたが、神社より上町、そして裏新町を抜けた際に上記のパネルが有り、見入ってしまいました。
 GPSの無い時代ではありますが、若干のゆがみ以外はほぼ正確に描かれている佐倉の御城下。江戸時代の地図を見ながら歩くのも良いかもしれませんね。

インスタ用に作成
 
宮小路について [令和1年5月15日]
 このところ生き狛犬達との散歩について書くことが多くなっておりますが、今日はそれに関連してと言うか散歩コースの宮小路について。
 宮小路と書いて「みやこうじ」と読みます。宮は神社。当然、麻賀多様の事を指し、小路とは細い道、もしくはまっすぐな道の意味。
 決して路地という意味ではありませんのでご注意を。
 なので、麻賀多神社の前を通っている真っ直ぐな道沿いの場所を宮小路と言います。
 町内名だと町がついて「みやこうじまち」。神社最寄りのバス停も「宮小路町」なのですが、車内アナウンスでは「みやこうじちょう」と言っていますのでいずれの時に訂正を申し入れた行く思っております。
 その昔は神社の鎮座地「鏑木」をとって鏑木小路とも言ったそうですが、いつの世からか宮小路となったそうです。
 いずれにしても麻賀多神社と不可分な地名と言う事になります。
 昨日ですが、宮小路町内で造成工事に伴う安全祈願祭を奉仕しました。
 宮小路町には2本のメイン通りが有り、1本は神社前を通って佐倉城に向かう道。
 もう1本はそれと平行して現在の武家屋敷の通りです。
 今回の祭典は後者の武家屋敷の通り沿いで行いました。
 江戸時代、武士の屋敷は藩からの借り物。今で言うところの社宅に該当しました。
 明治以降、最後に済んでいた者に払い下げられたり、武家以外の者が住んだりと住民構成は一変しました。
 また佐倉は佐倉城址に陸軍の連隊が入ったことにより一部の武家屋敷が将校官舎となった例もあります。
 それぞれある程度の敷地面積が有りましたが時代の流れというか、なかなかそれを維持するのも大変なのです。
 なので敷地の一部、若しくは全部を宅地造成するようなことも行なわれるようになりました。
 お祓いの準備をしている時、ふと顔を上げると敷地の先、家々の屋根の合間から麻賀多様の境内樹が見えました。境内南東のヒマラヤスギですね。
 神社は御城下では一番高い場所にあり、その上に木々がありますのでよく目立つのです。
 造成工事は今月末で終了という事で、分譲後は新たな住人が入ってくることになります。
 その際には是非、地名の由来や地域の歴史をよく知って頂き、愛着をもって長く住んで貰いたいですね。


 
神社の周りぶらりしませんか!? [令和1年5月14日]
 今月10日の七峯にも書きましたが、宮司の日課に生き狛犬達との散歩があります。
 大体コースは神社近くの宮小路周辺と決まっているのですが、少し足を伸ばしてみると佐倉城址公園や武家屋敷付近に出ます。
 まあこのあたりも神社周辺と言えばその通りなのですが、当社の生き狛犬はチワワですので、そのサイズにしてみると結構な大冒険となる距離なのです。
 佐倉城址公園は神社より西方に約400メートルで、文字通り明治の廃城まで佐倉藩の中枢でありました。
 明治以降は城址全体が陸軍の施設となり、近衛連隊を始めいくつかの連隊が本拠地として駐屯し、そのなかで一番有名なのは通称佐倉57連隊ですね。
 この陸軍施設を作るに当たって佐倉城関係の建造物は全て破却され、礎石などは兵舎などの基礎に使われる事もあったんです。
 佐倉は江戸防御の要として歴代の佐倉藩主は親藩や譜代の大名がなりました。
 それを引き継いだのが上記の陸軍関係ですので、江戸から東京にその名が変わっても帝都防衛の要は変わりませんでした。
 その事も有り、現在の佐倉城址公園内には明治天皇や後に大正天皇となる皇太子殿下行啓の記念碑が建っております。
 ここまで歩いて歴博方面に抜けても良いのですが、なんせチワワの足ですので帰りにへばってしまうと抱っこすることになるので少し戻って市民体育館脇を下り、ひよどり坂を上ることに致しましょう。
 ひよどり坂は竹林を抜けるような坂道で、今にもお武家さんが出てきそうな雰囲気を醸し出しています。
 撮影で使われることも多く、平日でもカメラを持った人の姿を多く見ることが出来ます。今に言う「インスタ映え」ですね。
 この坂を上がったところが大聖院。佐倉七福神では大黒天と布袋尊をお祀りしています。
 大聖院から東に少し進むと武家屋敷。この通りの両和解に武家屋敷が並んでいたのですが、現在は3棟が佐倉市の管理の下に一般公開されています。
 その道をまっすぐに進み突き当たりを左折。また直進でこの両脇も武家屋敷跡。土塁にその面影を見ることが出来ます。
 少し広い通りに出て左折から道なりに進んでいくと神社の前に到着。
 神社を出発して城址公園から記念碑を見てひよどり坂。大聖院から武家屋敷を抜け神社に戻ってくるまでゆっくり歩いて40分。
 ですが、たかが40分といえども歴史がギュッと詰まっているのがお判りになると思います。
 佐倉はこういった所が沢山有るんですよ。生き狛犬達との散歩がてら、徐々にアップしていきたいとおもいます。

明治天皇行幸祈念碑

ひよどり坂
 
斎田点定 [令和1年5月13日]
 新帝陛下の即位に伴い今年11月14〜15日に齋行される大嘗祭。
 今日はその祭場となる大嘗宮で八百万神に献ぜられる新穀を栽培する斎田が、宮中三殿の神殿とその前に設けられた斎舎(さいしゃ)で亀卜(きぼく)により決定しました。
 悠紀地方(ゆきちほう・東日本18都道県)は栃木県。主基地方(すきちほう・西日本29府県)は京都府です。
 亀卜とは亀の甲羅を火にかざし、そのひびの入り方で卜うというもの。
 今回使用された甲羅は小笠原地方で採取されたものが使われました。当然ですが現在はウミガメの捕獲は禁じられていますので、何かしらの原因で打ち上げられた海亀の甲羅を保管していたものを使用しております。
 斎田決定の知らせは即時天皇陛下の元に報告され、栃木県と京都府の各知事にも電話で伝えられたそうです。
 今後は2府県内で斎田の具体的な場所が決められ、御田植祭から秋の斎田抜穂の儀など順次祭儀を行ない、収穫の後に大嘗祭で献ぜられます。
 因みに我が千葉県は明治天皇の大嘗祭に安房国が主基地方に選定され、現在の鴨川市に主基斎田が設けられました。
 最初に悠紀地方は東日本、主基地方は西日本と注釈しましたが、昭和天皇までは京都で即位礼と大嘗祭が行なわれていた関係で現在の区割りとは違っており、現在の区割りは上皇陛下の即位礼と大嘗祭が東京で行なわれた事により変更された経緯があります。
 最後にもう一つ。京都が選ばれたのは
今回が初めてです。昭和天皇までの区割りでは畿内5ヶ国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)は選定除外地となっておりました。
 長く京都で行なわれていた即位礼と大嘗祭が東京に移り今上陛下で2回目となります。その大嘗祭の主基斎田に京都が選ばれたにのは目には見えない印縁を感じずにはいられません。

神殿前斎舎

亀卜の火桶など

甲羅、これをあぶります
 
大安母の日 [令和1年5月12日]
 令和改元での御朱印ラッシュも落ち着きを見せるようになりましたが、週末はそれなりに多くの朱印帳を預かります。
 今日は大安の日曜日でしたので、権禰宜達が御祈祷の合間にせっせと奉書をしておりました。
 宮司は午前と午後に地鎮祭の出向。共に30代後半の施主さんでして、奥さんや子供達の参列もあり、穏やかな中に奉仕が出来ました。
 世の中では5月第2日曜日は「母の日」として認知されています。
 そのルーツをひもとくと、アメリカの南北戦争時に負傷した兵士の看護にあたったアン・ジャービスの娘アンナ・ジャービスが、亡き母親を偲び母アンが日曜学校の教師をしていた教会で記念会を持ったのが始まりだそうです。
 そのとき贈られたのが白いカーネーション。
 この風習が日本に入ってきて、やはりキリスト教会から広まっていったとの事です。
 ここまで読んで何か疑問に思うことはございませんか?
 そうなんです、母の日のカーネーションと言えば「赤」が普通なのですが、最初は「白」だったのです。
 これには理由がありまして、亡き母を偲んでという件に注目して下さい。
 亡くなった母に対しては「白」を。存命の方には「赤」のカーネーションを贈るのだそうです。
 宮司が子供の頃は母の日が近づくと小学校で紙製の赤いカーネーションに「お母さんありがとう」と短冊が付けてあるものを配られました。
 それを胸に付けて帰宅するのが少し恥ずかしかったですが、その姿を母親に見せるだけで何か嬉しかった記憶があります。
 この風習も母親がいない家庭への配慮云々とかで無くなってしまいましたが、良い時代だった気がします。
 お母さんありがとう、そう言う前に生家の母よりお花のお礼で電話がありました。なんともこそばゆいですね・笑


 
わんぱく相撲で仕切り直し [令和1年5月11日]
 夏日ですね。場所によっては30度まで気温が上がったところもあったようです。気温差は体調に変調をきたしやすいのでどうぞご自愛下さい。
 今日は佐倉青年会議所(以下佐倉JC)主催の「わんぱく相撲佐倉場所」が岩名運動公園相撲場で行なわれ、例年の如く協議前の土俵清い祓いを奉仕しました。
 今回で28回を数える佐倉場所は両国の国技館で行なわれる全国大会への登竜門として、佐倉市と酒々井町の小学4〜6年生が参加する印旛地域では一番大きな大会です。
 現在の相撲場は佐倉JC創立30周年の記念事業として作られ、当時会員だった宮司も土運びなどを行ないました。
 勿論、地鎮祭や土俵開きも奉仕。それから卒業した現在に至るまで毎年土俵のお祓いを奉仕しております。
 開会式にはこの4月の統一選で初当選をした西田三十五佐倉市長始め多くの来賓がして下さいました。
 宮司と西田市長とは市長が県議時代より交流があり、酒席を共にすることもあります。
 今日は智勇権禰宜と共に出向しましたが、開会式前には西田市長と智勇権禰宜ががっぷり四つで組んだりと会場を沸かせました。
 新市長の誕生で佐倉市の行政も変わっていくものと思われます。
 その手腕に期待すると共に、仕切り直しが必要なものと、継続性が重要なものの選別がどう行なわれるのか、経過を見守って参ります。

清祓式

土俵外なので仕切り直し・笑
 
ジャロに連絡? [令和1年5月10日]
 散歩するに良い季節となりました。この数日、生き狛犬達を連れて神社近くを散歩しております。
 ご存じの通り当社の生き狛犬はチワワですので、元来長距離の散歩はしなくて良く、神社向かいあたり、町名で言うと宮小路町あたりを30分ほどゆっくり歩くようにしています。
 地元にいても路地裏とかは殆ど行きませんので、ちょっとした道を見つけると探検隊よろしく歩いてみることにしています。
 今日はちょっと足を伸ばして武家屋敷近くまで行ってみたのですが、そこで見つけたのが下の画像です。
 電信柱に車両進入の交通案内が貼ってあるのですが、その下に武家屋敷の案内看板。
 案内看板と言ってもダブルクリップでくくりつけた簡易のものです。
「この先車両 通りぬけできま・・・」
 普通に考えれば「できません」なのでしょうけど、見方によっては「できます」ともとれるわけで、なんともお粗末な状態となっております。
 交通案内は紛れもなく佐倉市で設置したものですが、武家屋敷の案内看板はどこが設置したのか。
 どなたかが親切心で設置したのか。まさか佐倉市で設置したわけじゃないですよね。
 いずれにしてもお粗末なのには変わりがないのです。
 紛らわしい表示はジャロに連絡すれば良いんでしたっけ?

お散歩にルンルン

これはないよね
 
浅草の宮本へ [令和1年5月9日]
 宮司がよく言われることに「神輿屋の宮本さんとは親戚なの?」というのがあります。
 神輿屋の宮本とは浅草に有る宮本卯之助商店の事。当代で8代目となる老舗中の老舗で、宮内庁御用達でもあるんです。
 当然の如く親戚ではないのですが、浅草の宮本さんもその元をたどると神職に行き着くそうです。
 神社に一番近いから宮本。名字でも有り、場所によっては町会名になっているところもありますね。
 以下、混同するので宮本卯之助商店さんは卯之助さんと記しますね。
 今日は卯之助さんの西浅草店に行ってきました。
 用件の内容ですが、大神輿に使うりょうじん綱、一般で言う力綱を新調する事になり、その打ち合わせと契約です。
 りょうじん綱は神輿本体と担ぎ棒を結わえるもので、麻で綯ったものです。
 神輿にはりょうじん綱と飾り綱の2種類を使うのですが、飾り綱は文字通りなので、実質はりょうじん綱がその負荷を受けることになります。
 現在の綱は平成11年に新調。昨年の渡御まで28回使用してきました。
 しかし長年の渡御で劣化し、渡御に支障を来す恐れが出てきた為、今回の新調となったわけです。
 綱は4本。1本が約18メートルあり、素材はマニラ麻を使います。
 当社のりょうじん綱は赤色で、既製品ではないため2,3ヶ月掛けて染め上げることになります。
 東京は今月からお祭シーズンに入ります。今週末は神田神社で来週は浅草神社の三社祭。
 神輿屋さんも大忙しになりますので、今日の契約が済んでホッとしております。
 令和最初の御例祭は真紅のりょうじん綱が映えますよ。こうご期待です!